【イーハトーブ海岸】宮沢賢治三陸紀行詩碑めぐり<普代村/田野畑村/宮古市/大槌町/釜石市>

賢治の文学ロード三陸へようこそ!~賢治の詩の世界を探究~三陸紀行詩碑に想う!

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宮沢賢治は、1925年(大正14年)1月5日~1月9日の行程で花巻から三陸地方に旅行したことが詩集「発動機船」などに記され、その詩碑が三陸沿岸に建立されています。賢治の三陸旅行の意図は定かではありませんが、賢治が歩いた道(イーハトーブ海岸)「詩碑」により当時の賢治の心象が窺えます。

<宮沢賢治三陸旅行ルート>

〇宮沢賢治は1925年(大正14年)1月5日花巻駅21時59分発の夜行列車で八戸駅(当時の尻内駅)に向かい、そこで乗り換え翌日の朝6時5分に種市駅に到着。そこから乗合バス、徒歩で久慈を超え下安家まで行き1泊したと言われています。翌日は、まついそ公園のある普代村の堀内、ネダリ浜の太田名部、田野畑村羅賀、いずれかの港から乗船し宮古港に向かい、宮古港から1月8日0時00発三陸汽船に乗船し山田港で下船、釜石へ徒歩で移動途中大槌川の河原で休憩し、釜石の叔父宅で1泊したと言われています。1月9日は釜石の鈴子駅から田中鉱山線で大橋駅まで行き、徒歩で仙人峠を越え、仙人峠駅から岩手軽便鉄道で花巻駅に戻り、全行程5日間の三陸周遊の旅を終えました。この期間花巻に戻るまで7編の詩を詠んでいます。

<普代村の詩碑>

①詩碑:敗れし少年の歌へる/濱善丸(はまぜんまる)で南へ

〇建立場所:まついそ公園内(三陸鉄道堀内駅から徒歩7分)

  

(まついそ公園/詩碑:敗れし少年の歌へる/浜善丸で南へ)

<詩碑の概要>

〇「敗れし少年の歌へる」は、詩集「暁窮への嫉妬」の中で詠まれた文語詩の一節で、賢治が夜明けの海岸を歩きながら薄明の空に輝いている星に心のときめきを抱きながらも、やがてその星が暁の空(バラ輝石を連想)に溶かされ、かき消される光景に嫉妬した恋愛感情の心象が窺えます。また詩碑の裏に記されている「濱善丸で南へ」は、地元郷土史家の調査研究により、堀内漁港から乗船し南へ向かったとする説が浮かび、普代村により2004年(平成16年10月)この地に建立されました。

②詩碑:発動機船一

〇建立場所:黒崎展望台(三陸鉄道普代駅から車で約10分)

 

(黒崎展望台から白い岩礁ネダリ浜の眺望/詩碑:発動機船一)

<詩碑の概要>

〇定説によると賢治は羅賀港から乗船し宮古へ向かったと言われていますが、詩の中で石灰岩の岩礁描写から、太田名部のネダリ浜の説も浮かび黒崎展望台に2016年9月普代村により建立されました。またこの詩の中では三陸の不漁・凶作による厳しい生活環境にも負けないで明るく生き生きと働く海の娘たちの姿など、出航前の港の様子が描写され、驚きと好奇心を持って現地の人たちを見つめている賢治の心象が窺えます。

<田野畑村の詩碑>

③詩碑:発動機船一

〇建立場所:本家旅館庭内(三陸鉄道田野畑駅から徒歩5分)  

  

(平井賀水門/詩碑:発動機船一)

<詩碑の概要>

〇東日本大震災前は現在の平井賀水門付近に建立されていました。建立者は本家旅館の経営者で故・畠山栄一氏。平成8年私費で建立されました。畠山栄一氏は、若かりし頃から宮沢賢治を大変尊敬していたと言われています。詩碑は津波被災で流されましたが瓦礫の撤去作業中に砂浜から発見され、現在本家旅館の庭先に移設建立されています。詩碑の内容は乗船した夕方の情景で、船荷の積み卸し作業をしている娘たちの生き生きとした様子が詠まれています。ここから羅賀丸に乗船して宮古へ向かったとの説によりこの地に建立されました。

④詩碑:発動機船二

〇建立場所:島越ふれあい公園内(三陸鉄道島越駅から徒歩2分)

 

(島越駅/詩碑:発動機船二)

<詩碑の概要>

〇東日本大震災津波で島越駅周辺は壊滅状態でしたが、詩碑は一部損傷したものの海に向かって垂直に設置され、側面から波の抵抗が少なかったため流されず、震災前と同じ場所に残ったのではないかと言われています。現在は復興公園として旧島越駅跡地に整備された島越ふれあい公園内に田野畑村によって建立されました。詩碑の内容は、夜半の船からの断崖の様子や、本船と伝馬船(漕ぎ船)との積荷のやり取りなど船内外の様子が描写されています。

⑤詩碑:発動機船三

〇建立場所:三陸鉄道田野畑駅前広場(三陸鉄道田野畑駅徒歩1分)

 

(田野畑駅/詩碑:発動機船三)

<詩碑の概要>

〇詩碑は三陸鉄道田野畑駅前広場にあります。詩碑の上に羅賀丸のブロンズ像が設置され荒波を航海しているように見えます。詩碑の内容は、魹ヶ崎の灯台や測候所などの町の描写から夜半に宮古港へ入港する情景が詠まれたものと思われます。また、詩碑の最後に「羅賀で乗ったその外套を遁がすなよ」の一節が記され、このことから賢治が羅賀港から乗船して宮古へ向かったのではないかとの説が有力となっています。

<宮古市の詩碑>

⑥詩碑:寂光のはま

〇建立場所:奥浄土ヶ浜(宮古駅から岩手県北でバスで約15分)

 

(浄土ヶ浜/詩碑:寂光のはま)

<詩碑の概要>

〇この詩碑は1925年1月の三陸旅行との関連はありません。賢治が盛岡高等農林学校3年1917年(大正6年)7月25日~7月29日にかけて、「東海岸視察団」という団体(花巻の政治家・有力者で構成)に参加し、三陸を旅行した時に詠まれた詩です。内容は、浄土ヶ浜でたくさんの昆布を広げている情景が詠まれています。実際に7月27日宮古で昆布工場を見学したという記録もあるようです。この旅行での昆布採りの体験が後の童話の主人公「てぐす・昆布どり」をもじった「グスコンブドリ」から「グスコーブドリ」に変遷していったのではないかと言われています。また詩の中で浄土ヶ浜が「寂光のはま」に表現されている部分は、賢治自身の宗教観念(法華経)によるものと言われています。(本家浄土真宗との相違からか?)

<大槌町の詩碑>

⑦詩碑:暁窮への嫉妬

〇建立場所:大槌浪板海岸/三陸花ホテルはまぎく駐車場空き地(三陸鉄道浪板海岸駅から徒歩7分)

 

(浪板海岸/詩碑:暁窮への嫉妬)

<詩碑の概要>

〇詩碑は大槌町浪板海岸の三陸花ホテルはまぎく駐車場空き地に「大槌宮沢賢治研究会」によって2016年(平成28年)8月建立されました。詩碑の内容は1925年1月北三陸で詠まれた「暁窮への嫉妬」の一節で、明け方の空がバラ輝石のように広がっていく情景を、大槌鉱山で産出されたバラ輝石にたとえた縁からこの地に建立されました。

⑧詩碑:旅程幻想

〇建立場所:大槌駅前広場(三陸鉄道大槌駅下車1分)

 

(大槌駅/詩碑:旅程幻想)

<詩碑の概要>

○詩碑は三陸鉄道大槌駅前広場に大槌宮沢賢治研究会によって平成31年3月11日に建立されました。詩碑の内容は賢治が1月8日0時00発の三陸汽船で宮古港から乗船し、深夜山田港で下船し月明りの中、山田から大槌の浜街道約16㎞を徒歩で大槌に向かい、大槌川の河原で休憩したと推察されています。この時の情景が「旅程幻想」の詩に詠まれています。

<釜石市の詩碑>

⑨詩碑:峠

○建立場所:JR釜石線陸中大橋駅前空き地内(JR釜石線陸中大橋駅から徒歩1分)

 

(JR釜石線陸中大橋駅/詩碑:峠)

<詩碑の概要>

○「峠」の詩碑は、当初国道283号線仙人トンネル東口(釜石側)に平成2年3月に建立されましたが、現在はJR釜石線陸中大橋駅の旧仙人峠道入り口に移設されています。賢治は釜石の叔父宅に1泊した後、鈴子駅から田中鉱山線で陸中大橋まで移動し、陸中大橋駅から徒歩で約3時間かけて岩手軽便鉄道仙人峠駅に移動し花巻に向かいました。詩碑は徒歩で移動の途中、仙人峠から見た釜石の情景が描写されています。旅の最後に仙人峠から釜石の絶景を望み、賢治が何を考え決意したのか心象は計り知れませんが、花巻に戻った後、翌年花巻農学校の教員を退職して一般の農耕生活に入りました。

※各地域の詩碑の概要は、宮沢賢治の関連団体の資料等参照し記載しております。

お問い合わせ

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  • 大槌宮沢賢治研究会(事務局:佐々木恒人/山崎充)
  • 【電話番号】090-9032-4510(佐々木) / 080-5877-2070(山崎)
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